
『物事には「曖昧さ」が必要だと理解しているアンに興味を持ったの』
とは、劇場パンフレットに載っている対談集で、ラリーン役のアン・ハサウェイが、監督・アン・リーについて語った言葉。
僕は、この言葉が大好きだ。
ここで言う「物事」とは、「劇中の現実として描かれる物事」だと思う。
何故?劇中の物事に「曖昧さ」が必要なのか?
それは、実人生がそうだからだ。
実人生こそが、「曖昧」だからだ。
好きだけど嫌い、嫌いだけど好き。
欲しいけど欲しいと言わない。大して大事じゃないものを必死で求める。
愛しているのに殺す。殺してたのに愛してる・・・。
1+1=2、以外に無数の答えが存在する。
これは、実人生を生きる大概の人は、「経験則」として理解している。
しかし!これがこと映画や芝居となると、それを大前提として描かれることはあまり無い。
ほんとにそのことに共感し、実感し、それでこそ人間は素晴らしいと謳った作品のなんと少ないことか。
そしてその少なさ故、
劇中「ひと夏のブロークバック・マウンテン」が終わった後、あくまで素っ気無かったイニス(ヒース・レジャー)が、突如、路地に入り込み「慟哭」するシーンのなんと深いことか。
そしてこの「慟哭」は、最期まで相手役・ジャックは知ることはない。
それで言えば、今年のアカデミー作品賞作品「クラッシュ」にも、似たセンスが現れる。
マット・ディロン演ずる人種差別主義者である警官・ライアンは、
愚劣な黒人差別者だが、確実に「事情」がある。
彼が、一晩中便所に座りっぱなしの父親の肩に手を置くシーンは、劇中の他のどの人物も目撃することは有り得ない。
イニスの「想い」とライアンの「事情」。
そう、それが人間だと思う。
そして、繰り返しくどいが、それを大前提とし、真っ向から向かい合った映画の何と少ないことことか。
ところが、相変わらずそういう作品の数が少ない中で、近年のアカデミー賞は「許されざるもの」やら「ミスティック・リバー」やら「21g」、「ミリオンダラー・ベイビー」とか、
人間心理のの「表に出ない側」に目を向けた作品を強烈に支持しているように思われる。
映画や芝居の役割が変わって来ているのか?
それは多分、見る側がいる世界が変わって来ているのだと思う。
もう来るところまで来ているのかもしれない。
単純なストレス解消では、「あまりにも刹那」、もっと本質的な救いが欲しい、と実は皆思っているのでないのか。
勿論、それと逆方向の動きも、どちらが「反動」なのか知らないが強まっていることも、日本でも日々ヒシヒシと感じられる。
単純な「二極対立」など、もう沢山だっ!と、実は皆が思っている。
全ての人間は「想い」を抱え、「事情」がある。
それをまざまざと見せられた時、人は救われる。
自分の「想い」「事情」を他人に伝える正当性と意義を感じられる。
イニスとジャックはぶつかり合える。
ライアンはそれでも、爆発寸前の車に飛び込む。
そして抱き合う。
だが、それは長くは続かない。
それでいいんだろう。と言うか、それしかないのだろう。
だけれど、「ブロークバック〜」の原作者、アニー・プルーは更に曖昧さを「追い詰める」。
映画劇中ラスト、イニスの「I SWEAR・・・」という台詞。
日本語訳は「永遠に一緒だよ・・・」と、かなり、映画的意訳になっている。
その日本語訳を抜きにしても、「I SWEAR・・・」と、
言えば、「ついにイニスが気付いた」=「一極化した」(かも・・?)と匂わせるラストにしているが、
原作では、
「・・・だが、アイツは誓うような奴じゃなかった・・・」と続けるらしい。
どこまでもどこまでも曖昧。